甲南大学文学部46年卒業の楠戸恵子(旧姓松本)です。私は、古いまち並みの残る倉敷市で呉服商を営む、はしまや(創業明治2年)へ嫁いでおります。
「多士斉々」なんて、元の意味を伺えば、私には荷が重いタイトルですが、主催しておられる石川様が「旧山陽道歩きの旅」で吉備路を歩かれた帰り道にお立ち寄り下さり、お話させていただいておりますと、石川様の御祖父様が、桃やマスカットの栽培技術研究技師で「果物王国」である岡山県の基礎を築かれた方であり、現在加古川にお住まいで、私の伯父の松本病院へ通院されたこともあったりと、何かご縁を感じ、甲南で学び(?)そこで頂いたご縁から私の半生を書かせていただくことになりました。
1.恩師との出会い
私が甲南女子高校2年生の時奈良の室生寺で、見学会に来ておられた甲南大学古美術研究会の皆様にお会いしました。その中に、私が中一の時、高三だったお姉様が阿弥陀如来像の翻波式衣紋について説明しておられました。仏像をじっくり見たのは初めてでしたが、和気あいあいと仏像や建物を学べるクラブがあることに大感激し、その時〝古美研へ入りたい〟と目標が決まりました。今考えてみますと、自分の意志で行動する目標が決まった最初の出来事だったように思います。入学するや否や、古美研の部室をたずね、顧問の和田邦平先生や先輩に色々教えていただきながら、ほぼオール出席でついていきました。古美研は、奈良薬師寺の高田好胤先生ともご縁があり、入学早々先生のお話を初めて伺いました。ざっくばらんなお話し振りと、慈愛に満ちたまなざしにひかれ、当時お寺で過ごしておられた先輩についてお寺の様々な行事や先生が出られる野球の応援等にも参加し、その度に好胤先生のあたたかいお導きにふれることができ、又、休暇中のお寺での滞在時には、日々に思い当たることをお諭しいただき又、お客様との対応、所作、掃除のしかた、お茶のお運びまで見習うことができ、とても楽しい有意義な時間を過ごさせていただきました。
そんな私の前に、アメリカ、アフリカから帰られ、自由なスタイルで教壇にたたれる、甘いマスク、優しいお声の米山俊直先生(平18年没)が現れました。講義は、初めて名前を聞く「文化人類学」というもので、お話はあっちへ飛んだりこっちへ戻ったりと、様々なことを知っていないと理解しづらいものでしたが、私はもう先生のステキさに見とれておりました。講義が終わり、先生とことばを交してみたいと外で待っておりますと、「講義どうでした?」と聞かれ、私はとっさに「先生に見とれており、講義なんて耳に入ってません」と答えると、「あなた、目学ですね」と云われました。
米山ゼミへ入ったものの、自分の課題を持ち、一生懸命勉強する学生ばかりで、先生もアフリカへでかけられることも多く、私は手紙で様子を知らせるのみでゼミも欠席ぎみ、結果成績はC、卒論も中途半端でしたが、何とか卒業できました。
進学のきっかけは、お寺巡りから美術史を勉強したいということでしたが挫折、京都大学よりも先に独立した講座ができた「文化人類学」(米山先生が京都大学へ戻られて開講される)も少しもかじることなく私の大学生活は終わりました。勉強はしておりませんが、心から尊敬できる先生と、ご立派なクラブの先輩(生田神社名誉官司 加藤隆久官司、第221世東大寺別当 筒井寛昭師)をはじめ、他個性豊かな友達と知り合え、お付き合いさせていただく中で今日の私が出来上がったと思います。
2.結婚を決めた父の言葉
それからしばらくして、親戚を介して舞い込んだお見合い話は、私と彼と倉敷が赤い糸で結ばれていたようなものでした。と申しますのは、相手、楠戸攸一郎とは、甲南女子時代の親友を通じて高3の時から顔なじみでしたし、彼の大学時代の遊び仲間はやはり、甲女の友達であったからです。それに、後にわかったことですが、私が生まれた神戸の徳岡医院の徳岡英先生は、倉敷中央病院が開院時、大原総一郎氏が京大から呼ばれた、若き産婦人科医であったり、攸一郎の卒園した倉敷の竹中幼稚園と、私が卒園した甲南同胞幼稚園(東灘区本山)は共に、やはり総一郎氏のお知り合いで、東京文化学院を創立した建築家西村伊作氏が建てられ園であったりしたからです。
とりあえず、学生時代の話しもしてみたく倉敷を訪ねますと、楠戸家は静かな街並みの中に佇む風格のある建物でした。お座敷でひばちを囲んで揃ってお抹茶をいただくと云う私には考えられない場面に身を置き、少々緊張しておりますと当時の旅のガイドブック『ブルーガイド』に〝くらしきもん〟として紹介されていた柔和なお顔立ちのおじい様が、「まー 一服おあがりなせー」と優しく声をかけてくださいました。手にとった自作のお茶碗には、なんと私が足しげく通った唐招提寺のエンタシスの柱を会津八一が詠んだ大好きなうた「おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ」が彫ってあり、伺うとおじい様も秋草上人(八一の雅名)がお好きでこのうたをよく書いておられたようで、もう大感激しました。
私は帰りの電車で「第二の人生180°転換してみようか」と思い始めておりました。転換とは、私のように両親が一代で無から有をつくり出し核家族でマンション暮らしで育った者が、先祖から受け継いだ物を守り、大家族で古い商家造の家で暮らすということです。他の甲南の友のように、阪神間で両親の屁護のもと新家庭を築くと思っていた母には、本当に辛い思いをさせましたが父は、「自分の思うように生きてみろ」と云ってくれ私は倉敷へ嫁ぐことを決心しました。
最近母から、父はずーっと「恵子はあれでよかったんかナ」と心配してくれていたことを聞き、早くに逝ってしまった父を思う度に涙してしまいますが、一つだけ父に喜んでもらえたことがあります。それは平成元年、妹(東京芸術大学声楽科卒、同オペラ科修了)のコンサートを開催できたことです。(アイビースクェアオパールの間で300人の方に聞いていただけました。)
私は当時妹の歌を倉敷の友人、知人に聞いてもらいたい、と同時に父に、私が倉敷で大勢の方に囲まれながら過ごしていることを見て欲しいと思っておりました。父の余命があと二年と宣告された時、これは急がないと・・・と、当時倉敷におられた甲南大からの友達、瀧澤和子さん(彼女はお仲間とアイビースクェアで、出演者もお客様もみんな知り合いの中、ステキなコンサートを楽しんでおられました。)に色々教えていただき即実現できました。それからは、親は子供がおかれた環境の中で元気に楽しく生きておれば安心してくれるんだと自分にいい聞かせながら暮らしております。
結婚式は父が思い描いていた通り妹が仲間と共に歌を聞かせてくれ、皆様にも大いに喜んでいただけました。又恩師、故・米山後直先生は「本日から楠戸家の一員となると同時に倉敷の市民になることですから、倉敷の〝土〟になるよう頑張りなさい」と励ましてくださいました。その時は、わかったようなわからないような気でおりましたが、ある時「倉敷は〝土の人〟と〝風の人〟がうまく交じり合って素晴らしい街になっている」ということを聞き、その時はじめて先生が云って下さったことをはっきり自覚することが出来いつも頭の隅においております。
3.夢空間「はしまや」をオープン
子育ても一段落し、私も何かしなければ・・・と思うようになり、(その前年から年一回「はしまやさつき展」として築125年の主屋と樹齢250年の大さつきとはしまやの呉服をみていただく会を開催)色々思い巡らしておりました。前述の米山後直先生の京大退官の最終講義を開き、後のパーティに出席した時、他の人は「自分はこんなことをしている」と言葉で云えるものを、持っておられたのに、私は単なる主婦でしかなく、私もなにか・・・と強く思いました。それから、私はここで何が出来るか、何をしたいかを真剣に考えるようになりました。しかし、自分の力ではどうしようもなく、どこかとタイアップして事を起こしたいと思い、当時先生が関係しておられたサントリーやミサワを紹介していただき、自分の置かれた環境の中で、共同で何か出来ないかを相談させていただきました。私の住む倉敷東町辺りの情況もリサーチして下さいましたが、当時、東町は人の流れはほとんどなく、ましてや共同経営等は考えられないと断られました。
それから改めて自分を見つめると、私のまわりには、物を創る、音楽を愛する、情報を発信する方が大勢おられ、又、それを見たい、聞きたい、受けたい方も大勢おられるので、私が〝場〟を持てば、何か楽しいことが出来るのではないか、と思い、公私共にご助言をいただいておりました「倉敷建築工房」の楢村徹さんに願望(ゆめ)を話しました。
その後紆余曲折を経、元米蔵が平成8年、国の登録文化財に登録されたのを機に楢村さんの手により再生が行われ、翌9年に〈楽しい時を共有できる場〉としての「夢空間はしまや」が出来ました。さらに昔、紺屋(藍染)をしていた蔵を楢村さんの設計事務所に、銘仙(大正、昭和前期、実用的で需要が多かった呉服物)を扱っていた店舗を息子、伸太郎(トゥレーヌ甲南、甲南大学卒)のレストラン「トラットリアはしまや」にと願望(ゆめ)をふくらませました。平成22年、三つ目の願望(ゆめ)が現実のものとなり、ずーっと思い続けているといつかは叶うということを実感しました。
〝場〟を持ってみての一番の喜びは、新たな出会いの中で、自分が過去に出会った人、思ったこと、経験してきたことがこの場で更に広く、深く、つながってゆき、自分の生きてきたことが意義づけられたように感じられることです。その具体的なものを甲南大学とのかかわりの中から少し書いてみたいと思います。
4.若き刀匠との出会い
古美研の同級生で陶芸家になった故・萬井護君が「気持ちのまっすぐな若き刀匠」と紹介してくれた久保善博さん、彼と知り合ったお蔭で私は長年の疑問が解けました。と申しますのは、国文の講義で読んだ『芭蕉七部集』(松尾芭蕉が弟子と共に詠み次いだ連句集)の『猿蓑』の中に去来が、たゝらの雲のまだ赤き空 と詠んでおり、はじめて耳にする「たゝら」という言葉のひびきにとてもひかれました。下段の注釈には鋳物に用いる踏鞴とありましたが、私の中では踏鞴とは童謡「村のかじや」に出てくる♪ふいーごの風さえ息をもつ~か~ず♪しかなく、いやたゝらとはそんなはずはない。もっとスケールの大きいもののはずだ・・・とずーっとこの言葉が頭の中をくるくるしておりました。
昭和52年、朝日新聞「天声人語」の記事を目にした時の驚きは今でもはっきり覚えています。それは、奥出雲横田町で戦時中軍刀の材料を調達する為に開設された「靖国鑪(たたら)」の地下構造がそのまま残っていたのと、たゝら操業(徹底的に乾燥させた炉床の上に炉を築き、三日三晩砂鉄と炭をもやし続け99.99%の鉄のかたまり、玉鋼を取り出す)のノウハウを知りつくしていた村下(たゝらの全作業を指揮する技師長)の阿部由蔵さんが弟子の木原明さんに伝統の技を指導し、木原さんは操業に備えて雨の日も雪の日も上半身裸のジョギングを続け、体力、気力、技術すべてを習得され「日刀保たたら」の名でたたら操業が復活した、という記事でそう〝たゝら〟とはこれのことだったと確信したからです。
久保さんと話していると「来年は自分が刀つくりの道に入ってから10年の節目の年で(彼は大学でバイオ関係の勉強をしていたそうですが、師匠となる吉原義人さんの作刀の様子をテレビで見、技はもちろんのこと、その精神性にもひかれ自分も挑戦してみようと門をたたかれたそうです。)何か発表したいという思いを聞き、私も夢空間の構想があり、その頃には私の願望も現実のものになっているので・・・と話が盛り上がり「4年後ネ」と再会を約束し、夢空間オープン2年目(平11年)作刀展を開催しました。
「天の叢雲の剣」出剣の地と伝えられている島根県横田町にある、上述「日刀保たたら」において作刀技術研修会が行われ、それに参加した久保さんはじめ、異色の好漢8人が結成した「叢雲会」のメンバーが、博物館でもお城でもない街中(まちなか)のギャラリーで刀を、それもケースの中には納めず、直に展示をするという例のないことをやってくれました。作家もお客様も〝男〟という風格の人が多く、私は会期中大姉御になったような感じでした。久保さんもこの「たたら操業」に参加しておられ私は実際その様子を見ることが出来、日本人の智恵と技術と精神力を目の当たりにし、大きな感動を覚えました。
5.ひとつの出会いから拡がるご縁
このように甲南で学生生活を送ったお蔭で様々なご縁があり、以下思いつくままに書き記したいと思っておりますが、夢空間オープン15年を過ぎた頃から一つの縁が、又新たにつながっていくことが多く、そのこともあわせてしたためておきたいと思っております。
夢空間オープン5年程して梅棹マヤオさん(故・米山俊直先生の恩師、故・梅棹忠夫先生のご息子)がバルセロナの造形作家マルタ・モンカーダさんを紹介して下さいました。美術全般何でも器用にこなす彼女は持ち前の人なつっこさと明るさから日本各地で多くの方と知り合い、2013年にファエンツァ(イタリアの陶都と云われている都市)のマジョルカ焼作家、平井智さんを私に引き合わせて下さいました。関西生まれの平井さんと話していると、若き日の彼のイタリア行のきっかけを作り支援して下さったのが、なんと甲南女子の先輩のお父様だったようでびっくりしました。
華やかな優しい風合いの見たこともないマジョルカ焼がすっかり気に入り即、夢空間で作品展を開催しました。又その頃、岡山発で全国を巡回していた「エヴァンゲリオンVS日本刀」という展示会のフランス・スペイン・イタリア巡回展に平井さんが尽力されておりました。そのエヴァンゲリオンの刀も、夢空間で刀展をして下さった叢雲会のメンバーが作られたことを話すと「まさか、恵子さんがあのメンバーと知り合いだったとは・・・」と驚かれ当時の写真を見せるとそのつながりのおもしろさにもう一度びっくりされました。
6.天野こうゆうさん―高田好胤先生のおみちびき
「夢空間はしまや」をオープンし日々新たな出会いを楽しむ中、35年の時を経て高田好胤先生のおみちびきを感じることがありました。それは、平成15年高蔵寺(倉敷市中島)の若きご住職天野こうゆうさんと出会ったことです。こうゆうさんは、住職としてのお勤めを果たされながら「みほとけの素晴らしさを多くの方に伝えたい」とテレビ、ラジオ、インターネットを通じ、子供達には寺子屋を開き、わかりやすく話され、又「生かされる喜びをうたい上げたい」と『おかげさま』をテーマに目をとじたほっぺの赤いなんとも愛らしいほとけさまを描いておられました。
お話しているうちに、こうゆうさんは幼い頃から好胤先生に憧れ、尊敬し、先生のおことばをよく写し書きしておられたことを又、新客殿の建立を薬師寺金堂を再建された小川三夫棟梁にお願いされていることを伺い、私はこうゆうさんとのご縁の深さに驚きました。
好胤先生は昭和42年、住職に就任されて以来、金堂の再建を発願し、その浄財を集めるのに「百万巻写経」による勧進を決め、東奔西走されました。私は46年の金堂の起工式にお接待として参加させていただき、遠くからりりしい小川棟梁を眺めておりました。
好胤先生は40年代の副住職時代から、落語家・桂米朝師匠が司会を務めておられた関西テレビの「ハイ!土曜日です」という朝のワイドショーに出演し、般若心経の「テレビ読経」を始められ、「百万巻写経」と共に大きな話題になりました。こうゆうさんは、好胤先生のこの「ハイ!土曜日です」を意識されていたのか、FMくらしきで平成13年から「拝(はい)、ボーズ!!」という雑学を交えながら、仏教のこと、ほとけさまの教えをわかりやすく説く、トーク番組をはじめられました。ここにも何とも不思議な話があります。
岡山県で高野山本山布教師の資格をもつ三人の中のお二人の住職が、天野こうゆうさんと、吉田宥禪さん(矢掛町多聞寺住職)で、お二人は以前から親しくし、お互い切磋琢磨しながら精進し、「拝、ボーズ!!」にもお二人で出演しておられます。宥禪さんは大阪ご出身で、落語家になるべく桂米裕として研鑽を積んでおられました。ところが矢掛圀勝寺のお嬢さんと恋に落ち婿入りし、お寺をつがれたという異色のご住職です。ここに好胤先生を尊敬しておられた天野こうゆうさんと米朝師匠のもとで修行しておられた桂米裕さんのコンビが生まれ、平成28年、放送開始15周年を迎えられます。前述の両番組は共にギャラクシー賞(放送関係の特徴ある、すぐれた番組に与えられる賞)を受賞しておられることにも深いご縁を感じます。
倉敷へ嫁いでからも当地へ先生がいらっしゃる講演会には何度か寄せていただきましたがご挨拶するのが精一杯のスケジュールでした。それでも2回はしまやへおいで下さったことは私の大きな喜びです。はじめて来て下さった時は夢空間はまだ存在せず、祖父が外国のお客様をお迎えするのに靴を脱いでもらわなくてもいいようにと蔵を改装し客間にしていた部屋へご案内し、私はせきを切ったように先生と話し始めておりました。そこへ母がお茶を持ってきてくれ、蔵のすべての重い板引戸(ガラス窓の内側の板の戸)をパパッと開けはじめました。その時先生はすかさず「お母さん、気ぃきかん(気のきかない)嫁ですみませんナ」と言われ、私はハッとしました。それから先生は、同行されていた甲南の谷口先輩に旅館くらしきの女将さんに今日ははしまやへ来てしまったので、そちらへは立ち寄れない由を伝えてくるように頼まれ、私は又ハッとしました。先生の細やかなおこころづかいに感じいると同時に、待っておられたかもしれない女将さんに申し訳なく、すぐに好胤先生とのご縁を話しに行き、今日のお許しを請いました。
二度目は市民会館での講演の時に壇上で、このあとはしまやへ行くことを言われたとかで何人かのおとりまきの方と共にお立ち寄り下さいました。その中に私も存じ上げていたアマチュアカメラマンの方がおられ、いつ撮られたかも気づかなかった位自然な感じの先生と私のツーショットがあり、私の大切な宝物なっております。
好胤先生とのご縁にも平成26年、後日談がありました。夢空間スタッフ武内さんのお友達が東京にある岡山県の育英会館の寮母さんをしておられ、彼女から全国の育英会会長、和田豊さんの話を聞いて欲しいと依頼がありました。すぐにお電話を致しますと、まず、自己紹介として、元は徳間書店で編集や、宮崎駿さんと共にスタジオジブリ立ち上げの仕事をしていたと言われ、私は徳間書店にすぐ反応してしまいました。と申しますのは、好胤先生の最初のご著書が徳間書店から刊行された『心』『道』『母』の三部作だったからです。私が好胤先生この本のことを申し上げると和田さんはびっくりされ、先生の写経による勧進の為の全国講演の時、和田さんは編集長と共に密着取材されたことを言われ、もうこちらがびっくりしてしまいました。(さっそく本を見ますと表紙見返しの所に和田豊と名前がありました)
ご用向きは、BS-TBSの「こころふれあい紀行」という番組のゲストとしての出演依頼でした。二胡奏者のジャー・パンファンさんが、日本各地を旅しその素晴らしさを再発見する音楽紀行番組で、あたりの風景とジャーさんのインタビューと演奏から構成されており、和田さんがゲストハンターとして人を捜される役目で、前述の寮母さんを通じて私に声がかかりました。夢空間での撮影はすごく大がかりなもので、室内にカメラのレールが走り、私はお化粧をあつく塗られ、目のきわきわまで濃いシャドーが入られました。放送作家の方が書かれた台本を見せられましたが、「自由にしゃべって下さい」と云われ、ジャーさんとのやりとりは少しちくはぐなものでしたが、何とか撮り終え、次のゲストとして、鉄筋を使った造形作家、徳持耕一郎さんを紹介しました。
7. 仏師坂本アサさん―拡がるご縁
甲南大学米山先生とのご縁からなる私の半世紀ですが、色々な方にお会いするとその大元(おおもと)へたどりつくのに一言で云えないことが多くなっております。その一つが、このこうゆうさんと女性仏師のご縁です。
米山先生は、阪神淡路大震災の一年後、小松左京、山崎正和、河内厚郎先生と共に『阪神文化復興会議』を発足されました。これは、阪神間の個性を形づくる〝文化〟という絆を再び紡ぎ合わせ、新たな文化情報ネットワークを構築し、住む喜びに満ちた地域の新生に貢献することを目的にした会で、私も会員として参加させていただいておりました。この事務局を手伝っておられたのが、初対面でしたが、甲南大学後輩の中田潤子さんでした。私は彼女に夢空間のことを話し、もし倉敷へ来られる機会があれば是非訪ねてほしいと申し上げておりました。それから何年かたってからの彼女の突然の訪問は神様に導かれた何とも偶然な再会で私は「ええーっ?どうして!!」と思わず叫んでしまいました。と申しますのは、彼女が阿智神社前宮司、故・石村陽子さんとご一緒だったからです。陽子さんとは子供達の幼稚園時代に父兄として知り合い、前述のアイビースクエアで、甲南大からの友達・瀧澤和子さん達とコンサートを楽しんでおられたメンバーでもあり、親しくお付き合いさせていただいておりました。
陽子さんは、当時阿智神社宮司でいらした伯父上様の跡を継ぐべく、並々ならぬ努力の末神職につかれ、宮司になられてからはそのお務めはもちろんのこと、地域の為様々な提案をされ、住民と共にそれを実現し、倉敷に大きな新しい息吹を吹き込まれました。彼女はお父様のお仕事の関係で西宮で育ち、中田さんとは同じ高校の同級生で大親友でいらしたそうです。毎年お仲間で小旅行をし、その年は、忙しい陽子さんを思って倉敷で集まられました。倉敷ということで、潤子さんは私を訪ねようと思っておられたそうですが、陽子さんはティタイムは夢空間で・・・と決めておられ、ここへ案内してこられたのでびっくりされました。帰り際潤子さんは、「素晴らしい彫をされる親友の女性仏師を私に紹介したいと次回来訪の約束をして下さいました。
それから間もなく女性仏師坂本アサさんの手になる仏様の気高く優美なお姿に息をのみました。アサさんとの出会いの日、偶然にも天野こうゆうさんがきておられ、御二人は仏像について大いに語られ、アサさんの彫られた仏様を目にしたこうゆうさんは以前からのある〝願い〟をアサさんに託されました。それは福徳神、学芸神等の性格を持つ弁才天、中でも八本の腕を持ち人々の悩みを救い願いを叶えるという八臂弁才天を本堂にお迎えしたいと云う願いでした。そしていよいよ平成19年の高蔵寺初薬師の日、この八臂弁才天の開眼式が行われました。弁才天は本来、極色彩の截(きり)金(かね)(金箔等を細かく直線状に切ったものを貼り、模様を表現する伝統技法)をほどこした工芸色の強いもので、開眼に先立ち、夢空間に展示した時はそのお姿の美しいさにみとれましたが、開眼式を終え薄暗い本堂に入り白木の厨子に納まった弁才天さまはすっかり仏様のお顔になっておられ思わず手を合わせてしまいました。
天野こうゆうさんは現在ますますご精進しながら高野山本山布教師として各地で法話を行いながら、ラジオパーソナリティ、コメンテーター、執筆家等多方面で活躍しておられます。又、墨彩、切り絵、版画、陶芸で神仏を形にして仏教の教えをやさしく説いておられます。
前述の弁才天を信じ教えを守りそれに従って願いが叶い救われた人々はそのお蔭を周囲に還元する為に何をしたらよいかを考えながら日々を過ごしていくよう説いておられます。