平成二十二年五月二十五日の朝、私は四十三年ぶりに母校のキャンパスに立っていた。
構内は学棟が林立し、大きく変わっていた。平生先生の胸像だけが昔のまま、そこに在った。何かを語り掛けておられるような眼差しは、昔も今も変わらない。
グリークラブ合唱の学園歌が流れる。甘酸っぱいものが胸を横切る。昭和三十年代、中高大の十年間を甲南でお世話になった。
ホームカミングの物産展に私は丹波の一農家として、今朝早くもいだ野菜を積んで来たのである。五十五戸が散在する奥丹波の山村(丹波市春日町山田)に移り住んで、田舎暮らし十年目の初夏を迎えた。
知った人の誰一人いない新天地だったが土地の人情は温かく、とりわけ無農薬・自然農法の農家と親しくさせていただいた。
五年前から農業を始めた。都会からこの村に入って新規就農した家族が事情により離村したので、また空き地になった畑があった。
三年間、自然農法でやってきたこの畑が荒れ放題に戻るのは何としても勿体無い。そこで地主と相談し、この七百坪の土地を借りることにした。農法は前の人と同じで、化成肥料や農薬を一切使わない。
草は非常な勢いで生える。畑の除草と外周の草刈で炎天下汗まみれになる。雨の日はホッとする休養日だ。
会社時代七十三キロあった体重が何のダイエットもしないのに十三キロ減った。健康診断で多くの項目に改善された数値が有った。これは思わぬ収穫であった。
玉葱、ジャガイモ、キュウリ、ズッキーニ、トマト、黒豆、黒ゴマ、人参、大根など季節のものが順々にとれた。手塩にかけた思い入れもあるが、野菜ってこんなに美味しかったか、と感激した。
これまで家庭菜園すらしたことの無かった百姓一年生にも太陽と丹波の土とバクテリア群は素晴らしい仕事をしてくれた。作物が育って行く上で大事なことは総て自然がやってくれた事に気がついた。
いま農場は千四百坪になり、関東、関西の自然食グループ、地元の道の駅(舞鶴若狭道、春日IC)などに出荷している。また月一回、神戸酒心館(四三号線、東明交差点南)にバンを走らせ、自家野菜と丹波の無添加食品を販売している。
丹波は森林が総面積の七十五%を占めるグリーンツアー(大自然に癒される旅)の舞台にふさわしい国だ。これまで私どもにホームカミングされた方は甲南関係で三十四名、全体で六カ国、二00名を超える。
奥丹波の私どもがささやかではあるが「いなか」をもたない都会の人のために「第二のいなか」の役を果たせたらと思う。
興味を持たれた方はホームページ http://www.tamba-sk.jp 丹波・食の会をご覧ください。
追記
この「第二の田舎」の趣意書に私は「・・・不測の自然災害にも、あなたの田舎はきっと何かのお役にたてるでしょう・・・」と記した。幸か不幸か、まだ大した仕事はしていない。しかし今後とも、「田舎と都会を結ぶ」をライフワークに尽してゆきたいと思う。
ふだん自然は懐ひろく暖かい。しかし時として、非情冷酷に襲い掛かってくる。
大震災から十六年、いま神戸は何事も無かったように穏やかな初夏を迎えている。そして今回、東日本は未曾有の苦悶の真只中にある。近い将来、関西でも東南海・南海地震の襲来が心配される。
消費専門・密集型の都会は災害発生時に、その脆弱性がモロに出る。助け合い精神を根幹とする広域のネットワークづくりが求められる。
災害に強い国づくりを考えるとき、全国の農山村は今後「安全公共財」としての新しい役割を果たすことを期待されるだろう。