2012年3月アーカイブ

村上 和子さん

村上 和子さん(大文56卒)

 『 英文科から一級建築士に 無理といわれて火がついて 』

【プロフィール】
S56年文学部卒
英文学科 石川ゼミ
神奈川県川崎市在住
勤務先 ㈱リフォ-ムプラザ小泉 

 
Q.卒業した学部は文学部英文科ですね。その村上さんが今は一級建築士の資格を取り、住宅リフォ-ム会社で設計のお仕事に関わっておられる。工学部を出た方や建設会社勤務の方でも資格取得に何年もかかってもおられると聞いている狭き門の国家資格。畑違いのような転換をされてる職業に就かれていることに興味惹かれます。

 結婚して関東に移り住み、はじめは医療事務関係の仕事をしていました。働いていたクリニックの院長先生が突然倒れ、職を失うことになりました。しっかりとした資格を取って、もっとしっかりとしたところに職を求めたいと考えました。以前両親が芦屋の実家を建築したとき、内装に口出ししながら、インテリアコ-ディネ-タ-に強く興味を持ちました。そして、一念発起、本格的にインテリアコ-ディネ-タ-の学校に2年通い、資格を得ました。そこで、運よく今の会社に採用されたのです。どんどん仕事をしているうちに、住宅内装を考えるうえで、その建物全体の構造を知る必要があると知りました。そして、二級建築士の資格をがんばって取ったのです。それで終わるつもりでしたが、義父が一言、こういいました。「二級建築士はなんとか取れても一級は無理だよね。」
murakamikazuko2.jpgカチンと私の脳にスイッチが入りました。やってやれないことはない。またまた一念発起。こんどもさらに並大抵な勉強では受かりそうにありません。朝、出勤前に1時間、昼休みパンをかじりながら1時間、夜3時間。とにかく最低5時間は毎日勉強しました。理数系は得意だったかって?いえいえまったく。でもよくよく勉強してみると中学3年程度の数学をしっかり理解できれば時間さへあれば理解できるとわかったんです。そりゃあ努力しましたよ。なにしろ建設会社の現場中堅社員でも落ち続けてる人の話とかよく聞いてましたしね。とにもかくにも主人の協力もあり、運よく合格できました。
  
Q.一級建築士の資格の合格率って、どれくらいなんですか?。
まず男女比はだいたい男80%女20%、受験者数に対する合格率は年によってもちがいますが、8~10%程度、40歳以上の合格者は全体の10~12%程度です。私が合格した年は、あのアネハ事件の直後で、急に難しくなったときでした。よりにもよってね。まあそれが返って身が引き締めました。
 
Q.増改築にあたって女性の視点で気を付けていることなどがあるのでしょうか?
murakamikazuko1.jpg現在勤めているリフォ-ム会社は、女性ばかりなんです。リフォ-ムは、なんといってもそこに住む奥様の要望が多いです。使い勝手の改善や微妙な色彩感覚は、やはり女性ならではの視点を意識し、提案しています。夢を形にし、使いやすさを実現するやりがいのある仕事です。

Q.東京マラソンに参加されてますね。マラソンの持久力も勉強が続いた体力に影響していますか?
いえいえ、走り出したのは、一級合格のあとです。がんばった生活が続き、合格したあと目標を失い、ボ-と放心状態のようになったんです。またなにか始めなければ、と思い、一番苦手なことをしよう、と思いました。子どもの頃から、運動音痴で、甲南大学での体育も苦い思い出があります。そこで、走ろう!と思ったんです。はじめは家から300メ-トルほどの多摩川までの距離からでした。往復ですから600メ-トルです。3日坊主で終わるかもしれないと思いながら、気負わず始めました。少しずつ徐々に距離を伸ばしていき、多摩川沿いを毎日走るようになりました。東京マラソンは応募しても当たらなければ参加できません。当たったのはとてもラッキ-でした。いつも車窓からの景色を自分の足で踏みしめながら、眺められるのです。それは気持ちのいい経験でした。なにか東京を制覇したような爽快感です。甲南大学ではブラジル研究会でした。神戸まつりのとき、フラワ-ロ-ドをサンバを踊りながら行進したことがその原点となってるかもしれません。今も毎朝5時起きで3キロ走り、週末には5キロ走ってます。仕事も御蔭様で忙しく充実しています。定年後の60歳にはホノルルマラソンをめざしてます。
 
目標を次々と達成し、活き活きと輝いておられてますね。ありがとうございました。
  インタビュアー:広報部IT地方担当  白須日尚子

小田 豊さん

小田 豊さん (大経43卒)

新たなステージ、「文化教育立市」長岡京へ
 

【プロフィール】
1944年 京都府長岡京市生まれ
1968年 甲南大学経済学部卒業
2003年 長岡京市長(3期目)
現在   済生会京都府病院副会長、京都府市長会会長

  
 同窓会から寄稿のお話をいただいて、学生時代を懐かしく思い出す一方で、さて、みなさんにお話できるほど頑張ってきたかなーと、振り返る機会にもなりました。この原稿を書いている時点(平成24年3月)で京都府長岡京市の市長職3期目を迎えています。交通至便な住宅都市であり、環境整備や文化活動に取り組んでいる日々を少しご紹介したいと思います。
 
 私は、この長岡京市で生まれ(当時は長岡町)育ち、1968(昭和43)年に甲南を卒業しました。当時の大学といえば、学生運動が盛んで、まともに授業もできない、学生がキャンパスにさえ入れないような大学もあったのです。しかし、甲南は幸い、明るく元気な校風を失っておらず、恩師、友だちにも恵まれました。役所で積極的に仕事に取り組めたのも、真っ直ぐな学園生活があったからこそ、といまさらながら感謝しています。


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[阪急新駅]

長岡京市は甲南とは阪急電車1本でつながっているわけですが、人口8万の住宅都市、文化都市として着実に発展してきました。市の名称からお分かりのように、都が平城京から平安京に移る間の10年間、桓武天皇が造営した都でありました。実は、平成22年3月に天皇皇后両陛下の行幸啓の折、本市役所にもお立ち寄りになりました。私は、天皇がこの地にお出ましになるのは桓武天皇以来1200年ぶりのことだと、感慨深くお迎えさせていただきました。
 そんな悠久の歴史を背景に、文化の香りのするまちづくりを進めています。幸い京都府の長岡京記念文化会館という施設があり、コンサート、オペラなどの「長岡京音楽祭」を毎年開いています。10万都市に満たない市ではありますが、みなさんの熱意が年毎に高まり、盛況です。もちろん、生活に密着した行政サービスはおろそかにできませんが、日々の生活に潤いのある、心豊かなまちにしたいという熱意を失いたくないのです。

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[勝龍寺城]

歴史絵巻の舞台としては、勝龍寺城があります。戦国乱世に、はかなくも清く咲いた細川ガラシャが細川忠興の元にお輿入れをした城です。つかの間の幸せな日々だったといいます。城跡は現在、公園になっていて、毎年、このお輿入れをテーマにした「長岡京ガラシャ祭」を盛大に行っています。私は、細川ガラシャの生涯をNHKテレビの大河ドラマに、という思いを強く持っていまして、京都府内のガラシャゆかりの自治体などと一緒にドラマ化の運動を展開しています。
 まだまだ、ご紹介したいことはいっぱいあります。春には、名高い乙訓(おとくに)名産のたけのこが味わえます。秋には源平時代の武将・熊谷直実が開いた光明寺の紅葉はまばゆいばかりです。京都縦貫道と名神高速道をつなぐ高速道路・第二外環状や阪急電車の新駅開業が近づいていまして、ますます交通の利便性が増します。
 六甲山ならぬ西山連山を背にした長岡京市に、どうぞ一度足をお運びください。いやいや、是非、住んでみてください。心から歓迎いたします。

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