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砂原副会長が論文「平生釟三郎と甲南学園の成立」を発表

 砂原教男副会長が学園創立時の史実を究明した表記論文を、大阪経済法科大学地域総合研究所紀要に発表した。この内(上)は2010年3月発行の第2号。(下)は2011年3月発行の第3号に寄稿している。
 私学は慶応の福沢、早稲田の大隈、同志社の新島など創立者を持っている。
 甲南は平生釟三郎先生であるが、90周年を迎え、その膨大な日記が復刊されており、この時期に甲南創立の事情を明らかにするものである。
 平生先生は、理想的な大学を作りたいと繰り返し、その日記に書かれているが、実際は七年制高校という全国で9校しかない学校を作ったところで終わらざるを得なかった。
 これについて(上)では「平生釟三郎とは」の章で先生の半生を紹介し、「人生三分論」で平生先生が20代までを修業の時代、20~50代を自立の時代、50代以後を奉仕の時代と考えていたが、そのころの住吉を述べている。「甲南幼稚園及び小学校の創立」では、当時の住吉に移り住んだ財界人の子女を受入れる幼稚園と小学校がなかったので、兵庫県立商業学校長の経歴を持つ平生先生が発起人に加わった。そして、住吉村から1500坪の用地を無償で譲り受け、寄付を募り、平生先生、日本生命の弘世助太郎、住吉合資の田辺貞吉、日本住宅の阿部元太郎などと共に大谷光瑞が二楽山上に建設した2年しか続かなかった中学校の廃材を譲り受けて、明治44年に甲南幼稚園が壮創立された。
 続いて明治45年に甲南小学校が創立され、大正9年に財団法人組織となった。
 この当時、平生先生は発起人や理事として参画している程度であったが、財政的に行き詰まり、募金も捗らなかった。そこで平生先生は自己資金を出して自ら背負って立とうと決心したことが述べられている。
 「甲南中学校の創立」の章では、この地域に中学校(または高等女学校)が少なかったので、中学校設立の気運が起きた。平生先生の要請で海運業者の河内研太郎、安宅商会の安宅弥吉、山下汽船の山下亀三郎、岩井産業の岩井勝次郎、良き理解者の久原房之助から高額の寄付金を得て、大正8年に創立され、こちらは別法人、「財団法人甲南学園市立甲南中学校」とした。続いて女学校も設立にこぎつけている。
 (下)では、先ず平生が在学していた外国語学校が政府の命により突然廃止されたため、大学に進学できなかったが、37年後に大学入学への特別コースである7年制高校を作ったことを述べている。続く「帝国大学への道」では明治初期の高等教育機関の整備状況について、「帝国大学」では旧制帝国大学の誕生について述べている。
 「旧制高等学校」の章でも当時の学制の整備状況を述べている。「高等中学校の成立」では、大学、中学、小学校などの制度化のあゆみについて述べ、中学には尋常中学校と高等中学校の二種あったこと、高等中学校が旧一高、三高などの高等学校(三年制)に移って行ったことなどを述べている。
 「七年制高等学校」の章では、法律では高等学校は7年制としたが、旧制高校はこれに従わず、官立の東京、公立の富山、東京府立、浪速、私立の武蔵、甲南、成蹊、成城の7校が生れたことを述べている。
 「甲南高等学校の成立」では、平生先生が「帝国大学が知識の切り売り、単なる資格の供給に隋している」と批難し、理想的な大学を作りたい」と述べている。第一次大戦後の不況と経済的に平生先生を支持していた財界人が経済的打撃をうけたため、7年制甲南高校に理想を託するに留まったこと、創立資金が得られなかったがようやく大正12年に創立にこぎつけた旨が語られている。
 従来は、平生先生の要請で、住吉一帯に住む財界人の援助を得て学園が創立されたとの認識があったが、旧制高校創立段階になるとずいぶん苦労されていたのである。
 平生日記などの資料に基づいて、学園創立時の事情を改めて確認した論文である。


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